【創作】雨男

久しぶりに書いた。novelcluster.hatenablog.jp



 晴彦は晴彦なんて名前のくせに彼は雨男である。いや、元来はその名に違わず晴男だったのだ。しかし、彼はてるてる坊主に願ってしまったのである。雨男にしてください、と。中学三年生の時。運動会の前日。晴彦はどうしても、どうしても、どーしても運動会に出たくなかった。それは彼の運動神経が悪いから、スカタンだからという理由ではなく、単純にだるかったからである。めんどくさかったからである。誰しもなんとなく、何をするのもめんどうだなあ、やりたくないなあ、超だるいなあ、もうまったくやってらんねーよ、と思う時はある。晴彦の場合、運動会の前日がなぜだかそういうモードであった。そんなわけで、その日、晴彦はてるてる坊主を作って、逆さづりにした。そして、明日は雨にしてくださいな、と願った。しかし、晴彦は帰来の晴男。自分で言うのもなんだけれど、俺の晴男っぷりにてるてる坊主風情が勝てるわけねぇよな、おほほほほ、って笑ってる場合じゃないぜ、おほほほほ。というわけで、晴彦はもう一度、逆さ吊りのてるてる坊主に願った。まるで宗教の信者が偶像への祈りを捧げるかのように、跪き、手を組んで願った。「俺を雨男にしてください」と願った。その途端、晴彦の頭上わずか30cm程の距離にもくもくもくと灰色の小さな雲が出来上がったのだ。晴彦が「なんじゃこりゃ」と言うやいなや、その小さな雨雲から、だばぁっと雨が降り注ぎ、晴彦をずぶ濡れにした。この小さな雨雲は晴彦の頭上に存在し続け、雨を降らし続けた。そして、今に至る。

 さてさて、困ったものである。飯を食う時、眠る時、学校に行く時、風呂に入る時、その他諸々をやっている時、つまりは四六時中、晴彦の頭上の小さな雨雲は雨をざーざーざーっと降らし続けた。たとえ、お天道様が晴れ渡っていたとしても、晴彦の天気は常に雨であった。そのため、ずーっと合羽を着て日々を過ごさねばならないような状態であった。屋内であろうが、屋外であろうが、それは変わらない。いつでもどこでも晴彦はずぶずぶずぶ濡れであった。また、そんな状態であったから、晴彦は一種の隔離という辱めを受けることになってしまった。なぜならば晴彦に近づいた人は、自分も濡れてしまうからである。人は誰しも水に濡れたくはないのだ。また、自分の所持物が濡れることを嫌がるのだ。そんなんだったら、プールにも海にも行くなよダボが、と思ったがそれとこれとは話が別である。というわけで、学校の授業も晴彦は別の教室で受ける羽目になってしまったし、こんな状態だからバスにも車にも電車にも乗せてもらえない。好物のラーメン屋にも行けないし、仲間内で毎日通っていたゲームセンターにも行けない。というか、その仲間たちも濡れ鼠の晴彦との付き合いをやめてしまった。なぜなら濡れたくないのだ。また、自宅でも晴彦は主に風呂場で過ごすことにとなった。睡眠も食事も風呂場で取った。小さな雨雲はまるで飼いならされた犬のようにどこまでもどこまでも晴彦を追いかけてくる。しょうもない願いをしたばかりに、晴彦はこの忌々しい雨雲と昼夜を過ごすこと、いや、今となっては一心同体と言って良いような状態になってしまった。

 さて、そのような雨雲とのカップル状態であったにもかかわらず、晴彦はなんとかその春に高校に入学することができた。新しい日の門出を祝うかのように快晴の空とピンク色の桜が咲き誇っていたが、晴彦だけは身も心もどんよりとした曇天模様であった。忌々しい小さな雨雲はどこまでもついてくる。晴彦についてくる。晴彦は高校では陸上部に所属した。こんな状態で大会などに出場できるのか、という疑問があるが、晴彦の目的はそこではなかった。純粋に足を速くしたい、その一心だけで、晴彦は陸上部に入部した。なぜか。晴彦は足を速くすれば、雨雲から逃げ切ることができるのではないか、と考えたのである。いくらどこまでもついてくる、といってもそれには限界があるはずであり、ものすごいスピードで走りぬけば、雨雲を置き去りにすることができるのではないだろうか、と。

 晴彦は常に雨でずぶ濡れになりながらも熱心に練習に励んだ。ずぶ濡れになりながらも何度も何度もスプリントをこなした。スピードを追い求めるために研究も重ねたし、近づいて嫌そうな顔をされても構わず監督や上級生に教えを乞うた。そこには一種のピュアと狂気があった。何事にも当てはまるが、極限まで追い求めるという姿勢はピュアであるし、また狂気もはらんでいる。晴彦はスピード、足の速さに対してそういう姿勢で臨んだ。そして晴彦は走り始めてわずか二か月で陸上部内の誰もが追い付けないほどのスピードを身に着けた。

 しかし、まだ雨雲は振り切れぬ。忌々しい悩みの種を置き去りにすることができぬ。部内の誰も晴彦をつかまることができなくなっても、雨雲だけは執拗に追いかけて、執拗に晴彦の全身を雨で濡らし続けている。小さな雨雲こそが晴彦にとって追い越すべき壁であり、そして勝たなければならない、スプリンターであった。晴彦は大会への出場などには全くの関心を寄せず、日々スプリントを重ね続け、さらにさらにとスピードのバロメーターを高めていった。狂気を孕んだまま高めていった。そしてついには、晴彦は100m9秒の壁を越えた。それでも雨雲の壁は越えられなかった。一瞬くらいならば振りぬくことができるが、あくまで一瞬であり、すぐに追いついてくる。まだまだスピードが必要であることは明白であった。彼よりも速く走れる人類がいなくなった今でも、もっとスピードを、と晴彦はとにかく執拗にフィールドを駆け抜けつづけた。

 ところがある日、異変は起きた。異変というのはある日突然起きるのが常であるが、この異変もある日突然であった。その異変に真っ先に気づいたのは風呂場で眠る晴彦であった。いつもならば、雨でずぶ濡れの状態で陰鬱に目が覚める晴彦だったが、今日に限って陰鬱ではなく晴れやかに、そしていつもと最も違う点が彼の体が濡れていなかった、ということだ。ふと、頭上を見上げる。そこにはカビで黒く薄汚れた風呂場の天井しか見えなかった。賞味期限が終わったのか、契約期間が終了したのか、何なのか理由は全く分からないが、兎にも角にもこのように晴彦の頭上から雨雲は消え去ったのだ。

 忌々しい悩みの種が消えた晴彦であったが、心は未だ曇天模様。結局、彼は頭上にぽかりと浮かんでいたあの小さな雨雲を彼自身のスピードで置き去りにすることができなかったのである。心の曇りはそれが原因であった。スピードを付け続けたが、彼は頭上の雨雲という壁を超えることなく、その壁は勝手に崩れ落ちた。別に向上心とかそういうものが人に比べて高かったわけではないが、晴彦の心はなぜだかガランドウだった。

 そんな想いで路上を歩く晴彦は鼻先にぽつり、と水滴の感触を得た。はたと上を見上げると大きな大きな雨雲が上空に浮かんでいた。ぽつり、ぽつり、ぽつりつり、ぽつぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつぽぽぽぽ、ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ、ばばばばばばばっっ、どばばばばばあああああああああああああああああああ、と地上へ雨が降り注いだ。人々は雨から逃れるため、傘を取り出したり、そこらへんにあるコンビニなどに飛び込んりした。だが、晴彦は傘も差さず、ずぶ濡れのまま、雨を垂れ流し続けるその雨雲を見ていた。どうやら、雨雲は西から東の方角へ流れていくようだ。数度の屈伸と、アキレス健を伸ばしたら、晴彦は雨雲が流れる方角へ、人類の限界を超えた様なそのスピードで駆けた。雨雲は逃げるように東へ流れ、晴彦は追いかけ、そして追い抜くように東へ駆けた。

 そして、雨雲がどこまでもどこまでも逃げても晴彦はどこまでもどこまでも追いかけ続けた。雨雲がふっと消えればどこかに浮かぶ別の雨雲を探し出し、そしてまたどこまでもどこまで追いかけ続けた。その足を休ませることなく、晴彦は東西南北雨雲の下で駆け抜けつづけた。時速50kmで流れ続ける雲を追いかける彼の身体は常にずぶ濡れであった。その姿は誰がどう見ても狂っていたが、なぜだかどこか満足そうにも見えた。晴彦がいるところに常に雨があった。彼は雨男だった。