理性を保つこと、正気を保つこと

 『啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために』という本を読んだ。

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

 
 面白かった。ジョセフ・ヒースの本はこれで二冊目なのだが、この人の書く本は面白い。この本を読みながら思ったりしたことをつらつらと書いてみる。

 人間を人間足らしめている要素というのはいくつかあると思うが、その一つに「理性」というものが挙げられる。理性によって感情や直感にがコントロールされ、合理的であったり、道徳的であったり、社会の秩序を慮ったり、という言動をとることができる。おれはどちらかというと感情や直感への信奉者ではあったのだが、このところはより理性的でありたい、と考えている。

 理性は人に生まれた時から備わっていることとみなされているが、同じ人でも環境によって多寡が上下されるものとされている。例えば、スタンフォードの監獄実験やホロコーストでのナチスの行為なんかがそうだ。以前、狂気は感染する - K Diaryという記事を書いたけれど、これもまた環境によって人の理性の力が弱まったりする、ということを示している。おれは理性的でありたい、と考えているのだけれど、そのためには理性的でいられる環境を作ることが必要だな、と思っている。以前、おれが働きたくない、と嘆いている様子を見て「働いたり、結婚していることによって、自分を縛ることができているんじゃないのか」と言った人がいた。今思えば、確かにそれもそうだ。そういう理性的でいらずにはいられない環境を身におくことによって、自分自身を縛り、理性的な生活を送ることができているな、と感じる。おそらく、そういう理性を保つ縛りがなかったらおれはとっくに駄目になっているだろうな、と思う。

 また、おれの場合はアルコールで理性の箍が外れてしまうケースが多い。感情や直感を理性でコントロールすることができずに宜しくない言動をしてしまうことがある。酒は酒でとても好きだし、辞めるつもりもない。ただ、シーンによって理性を保つことのできるレベルまでに控えておきたい、と思っている。別に酒のシーンだけではなく自分自身の理性というものの存在を常に意識して生きたい、と思うけれど。むしろ泥酔するなら一人の方がいいよなあ。そもそも泥酔するほど飲むな、という話ではあるが。まあ、これは余談。

 理性を保ったままよりも感情的、直感的であった方が良い場面というのはあるにはある。たとえば、クラブとかライブなどに行った場合。おそらく、こういう場面において理性を保ったままで心の底から楽しむことは難しいと思う。「我を忘れて」という方があるが、人間的であるよりも動物的であった方が心の底から楽しめる、という場面はよくある。もちろんそういう理性の箍を外すにも限度というものは必要ではあるが。

 直感や感覚を否定するわけではない。そして、理性は全能でもない。例えば、将棋の棋士。彼らは理性を持って合理的/論理的に考えて将棋を指すことが主であるが、直感や感覚で対局相手を打ち負かす、というシーンも多いそうだ。100%理性に基づいた行動/考えるのではなく、時には経験や勘を元にした直感や感覚を必要とする。つまり理性に基づいた合理性と感覚に基づいた非合理性のバランスが必要だということだ。そして、この場面は直感に従ってもよい、という判断を下すための理性もそれはそれで必要となってくる。

 理性をうまく働かせる、ということは正気を保つということに繋がる。ここ数年、世界のみならず、日本でも理性を保ったり、正気を保つことができていない人たちが増えたな、と考えている。デタラメな主張に対して理性を働かせられないことによって発生するレイシズムやヘイトスピーチは路上でネット上で相変わらずはびこっている。アメリカではドナルド・トランプみたいな排外主義者のアジテーションに対して理性を持たず感情や感覚だけで「正しい」などと錯覚し支持するアホが蔓延している。また、理性を持たない狂信者によるテロリズム。理性を働かせることなく、正気を保っていないがため、これらの事態が起きてしまっている。

 昨今の政治活動や商業主義。これらはプロパガンダ的手法によって人間の理性を紛らわせ、感情に訴えかけて反応を引き出すものばかりだ。政治であれば発言や思想、商業であれば製品。これら自体の良し悪しよりも、人に対して「どう感じさせるか」が重要視されている。どのように心に訴えかけるか、だけが重要だ。我々はそういう戦略に対して理性をもって合理的に倫理的に道徳的に物事を判断しなければならない。ちきりんが以前「自分のアタマで考えよう」ということを言っていた。おれはちきりんの手法(煽り、言いっぱなし、反対意見の無視等々)は好きではないのだが、これについてはその通りであると思う。外からの刺激に対して反応だけで示すのではなく、理性というフィルターを通して、考えて、それらを飲み込み、合理的/倫理的/道徳的な判断を下した言動を心がける必要がある。じゃあ、そういったことをおれができているのかというと、全くできてはいない。相も変わらず、感情や感覚に基づいた反応による言動が多いし、自分自身の社会や世界に対する視点(バイアス)に惑わされがちだ。時には感覚も必要だしそれが正しい場合もあるし、直感への信頼も捨ててはいない。それ「だけ」だとただのアホでしかない。理性をバランスよく働かせ感情/感覚をコントロールしなければならない。そして、それが正気を保つことにつながる。

 それでは、そういう風に個人が、そして社会が理性を保ち、正気を保つには具体的にどのようにすればよいのか。この先はキミの目で確かめてくれ。