狂気は感染する

 ふと、思い出したことがある。僕が小学校の時。四年生か五年生だっただろうか。僕は塾に通っていた。その塾というのはわりとスパルタで今じゃ考えられないけれど当たり前のように体罰があった。今となってはそこの塾で働いていた奴、全員死んでたら笑える、みたいな感じだ。僕も殴られたことがある。正しく言えばビンタなんだけれど。あんまり変わらん。なぜ殴られたか。当時、ペンを指でくるくるってやる、所謂ペン回しが流行っていた。で、僕もくるくるってかんじで華麗にペンを回せたらいいなーって思っていたので、塾でも練習してた。当然だけれど最初は下手くそなので、ペンをポロポロこぼしてしまう。んで、多分その塾の講師にとっては僕がペンをカチャカチャ落とす音がうるさかったんだろう。殴られた。死ね。いや、もう死んでるかな。死んでたら、笑える。

 僕がその塾で殴られたのはその一度限りだったんだけれど、他の生徒とかはよく殴られていた。遅刻だとか宿題忘れただとかの理由で。そんな中、結構な人数が遅刻したり宿題忘れた、という日があった。すると、その講師は自分で殴らずに遅刻していない生徒、宿題を忘れていない生徒が遅刻した/宿題を忘れた生徒を殴って良い、という指示を出した。狂気。僕はあんまり遅刻したりしなかったし、宿題忘れていなかったので、その講師に「殴って良し」と言われていたんだけれど「いやー、いいっす」という感じで避けていた。ただ、これは他人を殴るのが嫌、というより後で仕返しされたり関係性が悪くなるのが嫌っていうのが大きかったと思うんだけれど。ただ、他の生徒たち遅刻したり、宿題を忘れた生徒の事を大義名分の下、割と平気な顔をしてビンタしたりしていた。ある日は殴られ、ある日は殴る。その塾は半年くらいで辞めたので、その後どーなったかは知らない。

 さて。この塾で起きた殴り殴られに際して、殴る側が悪意を持っていてやっていたか、もしくは悪いと思ってやっていたか、というと僕はそうじゃないと思う。では、何を考えながら殴っていたかというと、おそらくだけれど「やるべきことをやっている」と思いながらやっていたと思う。もちろん、これは憶測の域を出ないし、この「やるべきことをやっている」というのは意識的ではなく無意識的なものであると考える。僕が通っていた塾は狂っていたと思う。だけど、教室のような小さな単位、且つ絶対的な権力を持つ者(ここでは講師)がそれを振りまけば、そこにいる者たちは簡単にそれを「当然のものである」と受け取ってしまう。そして、何と言ったってそこにいたのは青二才にも満たない小学生だ。簡単に狂気は感染するだろう。

 そして、この狂気の感染というのはここで述べた教室のような小さなコミュニティの単位だけではなくて、社会/国家という大きなコミュニティでも発生するものだと思う。ホロコーストを見ればわかる。ユダヤ人を迫害し、虐殺してきた人達というのは悪意を下にそれらを行っていたのではなく、するべきことだからしていたのだと僕は思う。小さな単位だけれど連合赤軍の総括なんかもこれに当てはまる。また、スタンフォード監獄実験も似たようなものを示唆している。いくら狂気を孕んでいてもそれを権力側が役割を与えて「やるべきことである」と植え付けてしまえば、どれだけ狂ってようが、どれだけ偏っていようが、どれだけ悪に満ちていようが、その行為を受け入れてしまうのが人間という存在であると思う。

 では、こういった狂気に感染しないようにするためにはどうするべきなのか。結局のところ倫理観を正しく育む、ということに終始してしまうと思うのだけれど、それすらもコロッと変わって崩れてしまうのが人間だからなかなか難しいよなあ、とここ最近感じている。

広告を非表示にする