赦し

思い付きのメモです*1。差別表現に関する議論として「差別の意図の有る無しに関わらず批判されるべきだ」派と「差別の意図が無いのならば(看過されるべきではないものの)大きく非難されるほどではない」派があると思うのだが、今の時代に後者の考え方ではやっていけないというか、大体は前者の考え方を基に差別表現と向き合っているのではないか、と思う。この場合、言葉狩りがどうのこうのと言ってくる輩がいるが、個人的にはうるせーバカ、という感じに思っている。んで、今はこういう差別表現を全世界に発信することも可能であるし、そういう差別表現を行っている人を発見し非難することも簡単ではある。罪というものには罰が与えられるべき…おれはこの「べき」という言い方あんま好きじゃないんだけれど、まあ、そうあるべきであると思う。

意図の有る無しにかかわらず差別表現という道徳上の罪を犯した場合、もちろん多寡はあるものの罰が与えられるのが正しいのだろう。例えば、ネット上だと怒られたり、つるし上げられたり、レッテルを張られたり、要は炎上という社会的制裁が与えられる感じだろうか。これらが罪に対する適切な罰なのかどうなのかとは思うけれど。結局のところ私刑でしかないしなあ。まあ、それはさておき、罪に対する罰を与える目的としては様々なものがあるのだろうと思う。んで、数ある目的の一つにキリスト教っぽい表現だけれど「悔い改め」させるというものがあると思う。そして、罰を与えられた結果、悔い改めた人に対して、我々は「赦し」を与えてあげたほうが良いと思うのだが、いかんせん現在のインターネットの構造上ではこの赦しというものを与えることがなかなか難しいような気がする。差別表現のような倫理に反するような罪をネット上でやらかして罰が与えられたものの、最終的には赦された、みたいなケースってあるかなあ。吊し上げられたり、怒られたり、というのは割と可視化されやすいのだけれど、赦しに関してはなかなか可視化されないよなあ、と思う。まあ、ネット上で意図の有る無しに関わらずヘイトをまき散らしている奴らって大抵は悔い改めないので、そもそも赦しを与える機会が無いという側面も大いにあるのかもしれない。ところで、全然別件なんですが「差別の意図の有る無しに関わらず糾弾されるべき」という考えは基本的には正しいと思うのだけれど、場合によっては所謂「繊細チンピラ」というやつにもなりかねないのでそこらへんに関してはどう考えるか、という問題がなくはない。

*1:文章が非常につたないし意見として全然纏まっていないけれど許してね、という汚い予防線