差別表現を「言論の自由」「表現の自由」の元で保障するのはやはり抵抗がある

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 ハゲ子パイセンに言及するというのは細心の注意を払わなければならない、と分かった上で書いてみる。

 おれははすみとしこのようなレイシストやネトウヨが行うヘイトスピーチ/差別表現を「言論の自由」「表現の自由」のもとで保障されるべきものであるとは思わない。確かに、言論の自由とか表現の自由いうものは万人が保障されるべきでことあるし、おれがこういう風にインターネット上で文章を書くことができるのもそういう保障があってのことであると思う。ただ、こういう差別的表現については「言論」や「表現」という言葉で片付けるべきではないのではないか。例えば、シャルリエブドの風刺画。あれをおれは表現の自由/言論の自由の元で保障すべきだ、とは思いたくないし、ましてや「わたしはシャルリ」なんて絶対に言いたくはない。だからといって殺されて当然だ、とまでは思わないけれど。ただ、はすみとしこのサイン会に中止を求めるという行動に関して、やはりそれは「是」であるとおれは思う。

 ただし、この件については感情や感覚による意見より論理的な意見が必要だ。上段のおれの意見は結局のところ感情によるものでしかない。また、立命館大学大学院法務研究科の市川正人教授の研究ノート(リンク)を読む限り、今の段階でこういった差別表現を規制/処罰の対象とするのも難しそうだ。必要であるのは理性に基づく論理的な言論である。のだが、これがまた難しいよなあ、と思っている。一方では表現の自由を肯定しつつ、一方では差別表現を否定しなければならない。実際のところ、おれ自身もこの面に関して論理的な武装ができていない。傷つく人がいるからやめましょう?それじゃあどんな言論も表現もできやしない。

 また、じゃあ暴力的なコンテンツはどうなんだ。例えば、女性蔑視や同性愛差別で溢れているギャングスタラップはどうなんだ。そして、そういうコンテンツを消費しているおれ自身はどうなんだ、という話にもなる。いざ、当事者(?)になるとどうしても自分の都合の良い風に解釈をしてしまう。これはエンターテイメントだからOKだのなんだのと。そうなると、たとえ理論的に武装し、言論を持ったとしてもどうしてもダブルスタンダードな部分は出てきてしまうと思う。じゃあ、どうすりゃいいのか。結局のところ、より妥当性があり、かつ具体性のある法整備を待つしかないのかもしれない。そして、それまでできることといえば、差別表現を否定するための論理や知識を身に着けながら、「NO」を叩きつけ続けることだけなのかもしれない。また、表現に対して批判をするのは自由であるはずだし、それは表現の自由を肯定することと矛盾はしないはずだ。

 ただ、hagexさんの言う通り「言論の自由」を守るのはやっぱり大変、だと思う。