かけがえのないものとか

去年だったか、一昨年だったか、どちらか忘れたが、以前にも似たようなことを書いた。過去に書いたのだが今あらためて思ったことを書く。夜、新幹線に乗っている時、高速道路を走る車に乗っている時。そういう時に窓越しの景色を眺めていると、カーテンや窓が開いているマンションや住宅が見えたりする。そして、そのカーテンや窓の隙間からそこに住んでいる人が飯を食ったり、洗濯物を干したり、その他何やらをしている様子なんかが見える時がある。おれはこれがたまらなく好きだ。別に覗き趣味がある、というわけではない。好きだ、というよりも強烈に胸を締め付けられる。もっと言うと、一種のときめき、に似たようなものを感じる。





龍谷大学で教授を務められている岸政彦氏。彼の著作『断片的なものの社会学』という本を読んでいた。朝日出版社のブログで連載されていた文章が纏められた書籍だ。ブログでの文章は何度か目にしたことがある。読んでいる最中にこの本をインプットに色々と書きたいな、と思うことが沢山あった。この文章も本書によりインスパイアされたものの一つだ。
断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

  • 作者:岸 政彦
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
さて、この本の中の「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」という章をよりいくつか文章を引用したい。

梅田の繁華街ですれちがう厖大な数の人々が、それぞれに「何事もない、普通の」物語を生きている。そうした、普段は他の人びとの目からは隠された人生の物語が、聞き取りの現場のなかで姿を表す。

まったく意味のない凡庸な存在が、ある悲劇や喪失をきっかけとして重要な意味を持つ。
(中略)
しかし私はさらに、この凡庸なものが、凡庸なままであったとしたら、ということを考える。

かけがえのないものは、それが知られていないこと、失われることによって現れる。だとすれば、もっともかけがえのないものとは、「私たち」にとってすら、そもそもはじめから与えられていないものであり、失われることも断ち切られることもなく、知られることも、思い浮かべられることも、いかなる感情を呼び起されることもないような何かである。





おれがさきほどときめきに似たような感情を覚える、と書いた景色。人が普通に暮らして、普通に生きていて、ストーリーもなければ、ロマンティックも無いもの。そして、そこにいる人たちの素性も知らなければ、顔も見えない。だけど、確かに息づかいを感じ、生活を感じることができる。そういう風景に対して例えようもなく、つかみどろこもないような感情を覚えてしまうのは、これらの風景が示すものは「かけがえのないもの」であるからかもしれない。

路上で歩いている人びと。顔は見えても素性も何も知らないが、彼ら、彼女らにもそれぞれに人生がある。様々なストーリー、紆余曲折を経て、この路上を歩いている。そういう路上での景色を改めて考えてみるとそれはそれで、かけがえのないものなのかもしれない。ただ、普段おれ自身が路上で歩いていて、そういう景色を見て「ああ、かけがえのないものだなあ」などと感じたり、ましてやときめきに似た感情を覚えたりするわけではない。素性の知らない人が家で生活している様子を垣間見ること。素性の知らない人が生きていてそこらへんで歩いている様子を見ること。前者では特に何も感じることない一方、後者では何かを感じてしまう。何故なのだろうか。

それは後者の景色が普段は目にすることは無く、与えられないものであるから、ではないだろうか。普段は全く目にしない知らない人が普通に暮らして、普通に生きている景色。それが一瞬であったとしても、そしてすぐに忘れてしまうものであったとしても、おれ自身の目に触れ、おれ自身が知るものとなる。もちろん、その一瞬の光景を目にしただけでそこにストーリー性を感じることができるほどの能力にはおれにはない。ただ、なんだろう。そこには普段はおれに与えられない、見ることもできない、普通の人が普通に家の中で暮らしている様子を目にすることによって、そういうものが確かにそこにある、というものを感じ取ることができる。ああ、なんだ、ちくしょう、うまく文章で表現できないなあ。まあ、いいや。兎にも角にも、そういう景色を垣間見た瞬間にかけがえのなさであったり、安心感だとか親近感だとか、あたたたかみだとか、愛おしさだとか、はたまた胸が締め付けられるような気持ちだとか、そういう入り混じった感情がどばあ、と押し寄せるのだ。

知覚しえない出来事や事柄や景色がある。そして、それが何かのきっかけで確かにそこにあることや手触りを感じるということがある。それはロマンチックなことである、とおれは思う。





インターネット上で書かれていて、公開されている文章には幾つかの形がある。おれはインターネット中毒的な部分があり多種多様なインターネット上の文章を読む。そして、多種多様な文章の中でもとりわけ好きなのが普通の人が普通に書いている日記だ*1。なんてことのない日常や出来事を綴っている日記。そういうものを読むという行為は、新幹線から、高速道路から、ちらりと普通の人が普通に生活を景色が垣間見えることに似ているのかもしれない。そして、それらを読むにたび、それらの景色を見かけるのと同じくいろんなものが入り混じった感情が押し寄せてきたりする。




「誰にも隠されていないが、だれの目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。

(岸政彦『断片的なものの社会学』より)





ところで、上記の文章を読んで、こいついつか覗き行為に走るって逮捕でもされるんじゃないか、と思われた方もいるかもしれない。一応書いておくが、そういうことはしない。


 

*1:余談だが、岸氏もこういったインターネット上にある日記が好きだそうだ