吉野家の牛皿とビール

ウチの職場の近くには松屋すき家はあるのだけれど、吉野家が無い。また、自宅の近くにも松屋はあるのだけれど、吉野家が無い。特別、吉野家の牛丼が好きなわけではないのだけれど、吉野家には松屋すき家には無い良さがあって、それは「牛皿とビールが様になるか否か」という点だと思う。もちろん、松屋すき家にも牛皿とかビールは置いている。だけど、吉野家でそれをやるのと、松屋/すき家でそれをやるのはなんとなく違うかなあ、と思う。まあ、この「なんとなく」っていうのを言語化するのがブログというメディアの一つの役割であると思うのだけれど、俺は非常に阿呆なので「なんとなく」を「なんとなく」のままにしてしまいます。

さて。俺は結構な風呂好きで自宅の風呂に入るのもそれはそれで好きなのだけれど、たまに銭湯に行って入ることもある。やはり、足が伸ばせて入れるのは良い。そんで、少しのぼせた体でちょっと一杯、みたいなことをやるのも非常に好きだ。ただ、居酒屋とかに入ってガッツリ、みたいなのではなく、本当に瓶ビールと少しのツマミ、みたいなのが良い。そういう場合、吉野家は非常に有用で且つ「銭湯帰りに一杯だけ飲む」というシチュエーションが非常に似合う店なのだけれど、俺の自宅までの帰り道にあるのは松屋。何となく乗り気にならず、結局自宅でテレビ見ながらビール、みたいな感じで終わる。

吉野家で牛皿とビールをキメることの良さというのは、「なんとなく渋い」っていうのもあるのだけれど、なによりも「終わっている感」とか「ダメな感じ」というのがちょうど良い気がするのですよ。松屋でのそれは「渋さ」があまりない気がするし、「ダメな感じ」を出そうにも店舗の面構えがスタイリッシュすぎる気がする。一方のすき家で牛皿とビールをキメることは「渋さ」の無さもさることながら、「ダメな感じ」というよりも「ダメすぎる感じ」が出すぎていると思うし、「終わっている感」よりも「終わりまくっている感」があるような気がするので、なんとなく避けたいなあ、という気分になる。それを踏まえた上で考えてみると、吉野家で牛皿をツマミにビールを飲む、ということは「ああ、俺終わってんなあ」とか「今の俺、結構渋いな」という一種の自己陶酔に浸ったり、自己演出をするのに丁度良い気がする。