引用元を明記しないスクショを貼ったツイートやめろ

昨日、ツイッター見てたら、TLに以下のツイートが流れてきた。

まあまあバズってて、内容も「ふふっ」という感じだったんだけれど、(少なくとも俺が見たタイミングでは)このツイ主からは引用元は明記されていなかった。
先程、ツイートに対する他のアカウントからのリプで分かったのだけれど、どうやら恋愛工学の藤沢数希の著作からの引用だったらしい。


先月もこれと同じようなことがあった。


これもおもしろスクショで、まあまあバズってたんだけれど、上記と同様に引用元が不明。また、ここに書かれている文面をGoogleで検索してみたのだけれどそれらしきサイトを発見することはできなかった。



同じように、書籍の文章によってバズっているツイートが5月にもあったけれど

こちらはツイ主自身によるリプライツリーでちゃんと引用元が明記されている。



まず、書籍であろうが、WEBサイトであろうが引用元を明記せずにスクショを乗っけるのはインターネット仕草としてカス以下としか言いようがない。可愛い動物の転載botとやってること変わんねえだろ、と思う。引用元を明記しない事による問題としては著作権の侵害というのもあるけれど、それが「本当に存在するのか否か」という判断ができないからだ。今回の場合は所謂おもしろ系/ネタ系ツイートなので大きな害は発生しないと思うのだけれど、これが政治や医療やその他あらゆる差別につながるような文章だった場合、どういったことが発生するかは容易に想像できるんじゃないだろうか。

前者のツイートは(別のユーザーからのリプライで)引用元が明らかになっているようだけれど、後者は不明なのでツイ主による創作という可能性も考えられる。仮に創作であった場合、「創作です」という明記がない以上、俺は単なるデマ/捏造の類であると俺は判断する。さもこういうオンラインサロンの養分になるような人が破綻した日本語で文章を書いているサイトが存在する、というようなミスリードを招くようなツイートだからだ。虚構新聞に対して「デマ/捏造だろう」という批判がある。虚構新聞が全く問題がないサイトかというと、なんとも言えない。ただ、嘘ニュースである、という明記はされているので、まあ良いだろう、と思う。ここらへんのネタとデマの匙加減は難しいところではあるんだけれど。

んで、俺が一番やべー、と思うのはこれらのツイートに関して「引用元はどこですか?」「これらは本当に存在する文章ですか?」と尋ねるようなリプライや引用RTが全く無かった、という点だ。少なくとも俺が見た範囲ではひとつもなかった。おもしろツイートだから、といってそういうことを全く気にせず脊髄反射でRTするような人がめちゃくちゃ多い、ということが心底恐ろしいし、そういう反応を取る人が先に述べた政治・医療etcに関する引用元が明記されていなかったり、存在自体が怪しい資料/文章のスクショに対してこれとは異なる反応を取るのか?というと疑問符がつくし、そりゃあ陰謀論やQアノンやワクチンデマやネトウヨが隆盛するわな、と思った。

ひとつになるな。ひとりになれ。

f:id:xKxAxKx:20210526154738p:plain

音楽で「ひとつ」になるな。
音楽で「ひとり」になれ。
音楽で自分になれ。

取り戻せ ぶっ放せ 存在。

タワーレコードのポスターにeastern youthが採用されたときに掲載された吉野氏の言葉。


「絆」だとか「ひとつになろう」とかそういう言葉、モノの言い方が持て囃されている。今日も「オリンピックで世界がひとつに」みたいな言葉を見た。何かを媒介して人と人がつながろう、一つになろう、みたいな風潮。めちゃくちゃ気持ち悪い。というか、もっと人は「ひとり」になるべきだ。どうやっても「ひとつ」になんてなれやしないし、そんなことができるというような幻想は様々な軋轢を生み出しているように思う。


今日のパンデミックによって先に述べたように「ひとつになって乗り越え、絆を取り戻そう」みたいな言葉をしばしば見かけるのだが、俺はむしろこの機会に孤独であることを取り戻すべきだと思う。それは友達と縁を切るとか、家族を離散するとか、そういうことではない。他者はあくまで他者であり、自分とは異なる存在であり、決して分かりあえないことを認識すること。それであっても、同じ社会やコミュニティに生きる人間として、その存在を尊重すること。それを強く認識して生きること、そして一種の諦めを持つことが「孤独」であると俺は思う。

一般的な「絆」文脈においては自身と他者を同一視した挙げ句、「同じものを目指して同じ考え方をしましょう」と述べているようにしか見えない。そういう点で強い違和感を覚える。そういうのは高校生の文化祭とか体育祭で終わるべきであって、いいトシこいた大人たちがアホみたいに「絆」という言葉を雑に使っているとげんなりとしてしまう。


余談だけれど、ロックという音楽は孤独なものであるべきだと思っている。なので、終演後のステージからの客との集合写真みたいなやつもすげー嫌。ましてやひとつになるなんてまやかしにもほどがある。

「批判よりも提案を」という人間を信用してはならない

ここ最近、テレビを見ているとセールスフォース社のcmがよく流れてくる。

聴き心地の良いLo-Fi HIP HOPなサウンドに様々なメッセージを乗せており、パッと見は良さそうなCMだと感じる。だけど、俺はこのCMの中の「批判よりも提案を」というフレーズで毎回ゲボを吐き散らかしてしまう。

「批判よりも提案を」とか「反対するなら代替案を出せ」。これらはインターネット(特にTwitter)をやっているとしばし見かける言葉である。しかし、様々な意味で問題のある言葉であるように思う。


「批判よりも提案を」とか「反対するなら代替案を出せ」というのは「提案をしないのなら黙れ」「代替案を出さないのならば黙れ」という意味と同義である。前者のような表現であれば多少合理的なように思えるが、後者はどうだろうか?横暴そのものではないだろうか。そんな横暴な人間に対してたとえ提案を出しても、それを聞き入れる度量など存在するのだろうか?割と「うるせぇ、黙って俺のいう事聞いてりゃあいいんだよ」というオチになりがちなんじゃないだろうか。こういう言葉を使う人間が本当に代案が欲しいのでは無い。彼ら本当に欲しいのは沈黙と盲従である。


往々にして議決権はこの言葉を使う側が持っていることも問題だ。最初に案を出すことができるのも相手側にあり、最終的にどの案を採用するかは相手側にある。その点において決定的に非対称を孕んでいると思う。結局のところ、この言葉を使う人間というのは権力者とマジョリティー、そしてそれらにすり寄る側の人間なんだよな。


ごはん屋に言って、クソ不味いメシが出てきたとする。客が料理人に「マズい。食えない。」と言うとする。それに対して料理人が「文句言うんじゃねぇ!!!じゃあ、お前が作れよ!!!」って言ったとしたらどうだろう。その料理人、アホだと思わないだろうか。メシを作るのは俺の仕事ではなく、お前の仕事だろうが、と。代替案を出すのは俺ではなくお前だ


ということを書いたりすると「じゃあ批判されたら!反対されたら!どうするんだよ!!!」と駄々っ子のようなやつが現れるけれど、どうすればよいかは明白で「批判や反対を受け入れる」ということである。

受け入れた上でどうするかを自分で考えろ。具体的にどこが問題なのか、どこに反対なのかをヒアリングしてもよいだろう。それで再度提案をしろ。代替案を出せ。良くなるように一緒に考えてもいいよね。批判されても反対されても、その良さを兎に角理解してもらえるよう、納得してもらえるように頑張ったっていい。もちろん多数派の暴力や権力を以て無視して押し通すこともできる。


追記: 読み直したら、料理の下りは詭弁だったな...!とはいえ、消すのもアレなので残しておこう...。

プログラミングスクールに通っただけでソフトウェアエンジニアにはなれない

tl;dr

  • プログラミングスクール通ってたけど、今はまずまずのソフトウェアエンジニアとして働いて飯を食っていけている
  • プログラミングスクールだけだと大したことは学べない
    • 同等、それ以上のことをドットインストールやN高で学べる
    • モチベーションを保つためには良いかもね
  • プログラミングスクールで学んだことだけが武器の場合、しょうもないところで働くしょうもないソフトウェアエンジニアらしきものにしかなれない
    • コードを書く上で基本情報技術者程度の知識もなかったらキツい
    • ソフトウェアエンジニアの仕事はコードを書くことだけじゃないから、それ以外のスキルも必要だと理解しといたほうがいい


プログラミングをして飯を食っている。なので、男子小学生のなりたい職業1位の職についているわけなんだけれど、元々はプログラミングは全然できなくて、30歳になってからやり始めた人間だ。プログラミングを習得してからはWEB制作 -> スマートフォンアプリケーション開発 -> スマートフォンゲーム開発、みたいな感じで、自分の興味のある領域の開発をやれていると思うし、徐々に技術的なレベルに関してはステップアップした職場で働けているとも思う。給料に関してもまあまあ悪くない感じで、転職するたびに多少なりとも上げてもらってはいる。ここらへんのプログラミング始めた話についてはこちらに書いている。
xkxaxkx.hatenablog.com


ここで書いている通り、俺はプログラミングを習得するにあたって、プログラミングスクールに通ったんだけれど、正直スクールで学んだことよりも、自分で技術書やチュートリアルをやって、自分が作りたいウェブサービスを作ったことのほうが今に繋がっている。所詮、こういったプログラミングスクールで学べることの全ては当時でもドットインストールで学ぶことができたし、いまだったらN高で習得することができる。だから単純に「プログラミングができるようになりたい」というだけだったら、それらのサービスを通してやっていくだけで十分だし、コストも何十分の一くらいで抑えることができる。では、スクールに通ったことが全くの無意味だったか、というとそうではなかったかな、とも思っている。
一番大きかった部分としては、普通に割と忙しく仕事しながら、並行して勉強するのってまあまあしんどいことではあるんだけれど「カネ払ってんだから、ちゃんとやらないと」みたいにモチベーションを保つことができたという点だ。こういうモチベーションがあったからこそ、カリキュラムで与えられたものをしっかりこなしたし、自分で技術書を読んだりして、知識を習得できたとも思う。
俺が通ったスクールは転職活動サポートもあったりしたんだけれど、結局は自分でpaizaで競技プログラミングみたいな問題を解いて探した制作会社に転職した。だから、コスパという点ではめちゃくちゃ悪かったと思うんだけれど、スクールに通った事自体に関してはあんまり後悔はしていないかな。

一つ言っておかないといけないのは、俺はプログラミングを学ぶ前はSIerとして上流工程のSEとして働いていた、という点だ。基本情報技術者程度の知識があったり、仕事の中でSQLも書いたりもしていた。また、WEBのソフトウェアエンジニアとして働くにあって、コードを書けることも重要なんだけれど、WEBだとディレクターやPO/PM、ゲームだとプランナーやプロデューサーと要件を詰めていって、それを設計に落とし込む、というのも重要な仕事。そういったこともソフトウェアエンジニアとして働く前から経験していた、という点も相当デカかったなーと思う。もし、これらの経験や知識が全く無くて、単純にプログラミングスクールに通っただけだったら、たとえ転職できたとしてもしょうもないSESで低い給料で働く、技術力の低いプログラマーになったんじゃないだろうか。なぜかというと、プログラミングスクールで教えることってハッキリ言ってアプリケーションを作る上での上辺でしか無いため、結局それだけだと上辺だけで全く奥行きのない「Railsでアプリケーションらしきものを作ることができる人」にしかならないし、「ブラウザにURLを打ち込んで、画面にWEBサイトが表示されるまで」をちゃんと説明することもできないはず。だから、職種によるけれど、例えば営業とかで全然仕事ができなくて、プログラミングさえ覚えれば俺は変われる!とか思っている人には厳しいと思う。

あと、プログラミングを習得して3社で働いていて、同僚や受託で入ってきたいろんなエンジニアと一緒に仕事してきたんだけれど、俺以外にプログラミングスクールに通った経験のある人って一人もいない。これがどういうことか考えてみると良いかも。それから、自分の場合は周りにいたエンジニアにも恵まれてラッキーだった。彼らから学ぶことってすごい大きいものがあったし、そういうのがなかったらめっちゃしょうもないエンジニアのまま死んでいっただろうな。

だから、個人的にはプログラミングスクールに通うこと自体に関しては反対はしないんだけれど、コスパはめっちゃ悪い、っていうことと、スクールに通って得るカリキュラム以上のことを自分から学び取らないとしょうもない結末を迎えることになるよ、あとは運、って感じかなー。