祈りは神が居なくても良い

祈り(いのり)とは、神などの人間を超える神格化されたものに対して、何かの実現を願うことである。祈祷(祈禱、きとう)、祈願(きがん)ともいう。儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいう。


祈り - Wikipedia


「祈り」というと就職活動していた時の「末筆ではありますが、 貴殿のより一層のご活躍をお祈りいたします 。」という一文を思い浮かべる。うるせえよ、白々しい、と感じるのだけれど、それはさておき。すっかり師走だ。みんな走っていますか?忙しいですか?僕はクソ忙しいです。はやく正月休みにならないかな、と思っている。正月になったら初詣に行きますか?僕は一応、毎年行っている。人が多いのは嫌なのであんまり混まない神社に行くことが多いけれど。お賽銭あげて、柏手打って、祈願して。祈りというとWikipediaから引用した通り、一般的にはこのようなことを指すだろう。試験に受かりたい時、何かを成し遂げたい時、家族や友人が病気とかしている時、お腹が痛い時。そういう時に人智を超えた何者かに対して祈る。何かしらの信仰を自覚的に持っている人は日ごろから祈りを捧げることが多いのだろうけれど、僕のように特定の宗教を信仰していない日本人の大多数が祈るのはそういう時だと思う。

だけど、祈りってただそれだけなのだろうか。神や信仰する対象に対して何かの成就を願うことだけが祈りなのだろうか、と。例えば。友人がなにかを達成しようと努力している時。成功するように祈っているよ、などと言ったりする。これは口先だけという場合もあれば、本心から言っている場合もある。で、本心から言っている場合、そこに神は介在するのかというと別にそうでもないかな、と思う。誰かに対して頑張ってほしいなーとか、成功してほしいなーとか、思ったりする。そういう風になんとなく思いを馳せること、それ自体も祈りなんじゃないかなあ。言葉のあや的な面が多分にあるのだけれど、そういうのも十分に「祈り」と言えるんじゃないかなあ。THE BLUE HEARTSの曲に"人にやさしく"という曲がある。その歌詞の中に『僕が言ってやる でっかい声で言ってやる ガンバレって言ってやる 聞こえるかい ガンバレ! 』というフレーズがあるのだけれど、これも神の介在しない祈りだと思う。ただ、そういった励ましの言葉全てが「祈り」であるかというと、何となく違うような気もする。では何が違うのかというと、これ書くのめちゃくちゃ恥ずかしいのだけれど愛があるか無いか、それを感じられるかどうか、だと思う。まあ、愛と一言に言っても色んな解釈があるけど。ただ、冒頭に挙げた就活のお祈りメールなんてのは愛が無く、そこにあるのは祈りではない。対象への愛の無いガンバレだとか励ましだとか、そんなのは祈りではない。だから、僕が思うこととして祈りには神が介在するか、愛が介在するか、そのどちらかが不可欠だということだ。両方がある場合もあるけれど。舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』という小説の冒頭に「愛は祈りだ」という一節があるけれど、「祈ることは愛することだ」とも言えるんじゃないかな、と僕は想う。

んで、何故こんなことを書いたのかというと最近1000文字超える文章を書いていなかったからです。