孤独。寂しさ。疎外感。退屈。

僕が常々思っていて、この日記上でもたまに書いていることとして「孤独だけど、寂しくない」ということだ。僕の中で孤独=寂しいではない。もちろん「孤独」と「寂しい」が両立することもあると思う。ただ、寂しさを感じる瞬間は一人ぼっちでいる時はほとんど訪れない。一人ぼっちで家で本を読んでいたり、散歩をしたり、文章を書いたり、写真を撮りに行くことは多いけれど、そういう時に「ああ、寂しいなあ」と感じることはほとんど無い。むしろ、寂しさを感じるのは一人ぼっちでは無い時の方が多い。

「寂しさを感じる」というのは「疎外感」だと僕は思う。それは人と人との関係性の中で生まれるものだ。だから、他人との関係性が皆無な状況での活動、先に述べたひとりぼっちで文章を書いたり、写真を撮ったり、という他人が介在しない孤独の中に居る状況では「寂しさ」というのは生まれにくいんじゃないだろうか。しかし、何かの集まり、飲み会、パーティ、仕事、といった他人との関係が発生する状況の中で会話についていけない、のけ者にされている感覚、ここになんでいるんだろう感、といった「疎外感」を感じた時に人は「寂しさ」を感じるんじゃないかな、と思う。だから「孤独であればあるほど寂しさを感じない」のではないかな、と考えている。インターネットは基本的に孤独なものであると思っているんだけれど、ある種のものは寂しさを喚起させる。Facebookなんかはそれが顕著だと思う。なぜならば、Facebookは人と人との関係性を前提にしたSNSだからだ。今度からFacebookの事を「寂しさ増幅器」と呼ぶことにしよう。

さて、そういう人と人との関係の中で寂しさを感じた時に同時に生まれるのが「退屈」という気分だと思う。この寂しさの中で生まれた「退屈さ」を埋める方法というのはいくつかある。例えば、飲み会とかだったらインターネットの世界に逃避する、という方法もある。たまに飲み会とかで端っこの方でスマホをいじったりしている人がいると思うんだけれど、ああいう人は寂しがっているんじゃないかな。寂しくなって、退屈になったから、退屈さを埋めるためにそういう行動に出ていると思う。ただ、そういう行動というのはさらに退屈さや寂しさを生んでしまう可能性もあるのでは、とも思う。

じゃあ、どうすれば良いのか。それは「孤独」になることではないか、と思う。先に述べたように、孤独に何かをする中では寂しさや疎外感、そして退屈さ、というのはなかなか生まれにくい。ただ、大事なのは「孤独である」ということは寂しさ、退屈さを埋めるための代償行為であってはならない、ということだ。先に述べたように、そういう代償行為を行うことにより、さらに退屈さや寂しさを増幅する場合がある。孤独は強いられてなるんじゃ無くて、主体的に自ら選択してなるべきものである僕は思う。また、寂しさや退屈さを感じた時は逃げたり、埋めたりするのではなく、それをありのままに受け入れた方が良い。それはいつかどこかに消えていくのだから。

とはいえ、社会的な生活を送っていく上で他人の関係性をシャットアウトしてずーっと孤独に生きていくのはあんまりよろしくないと思う。。そこらへんはバランス感覚が必要だろう。ただ、僕が言いたいのは「孤独」というのは決して悪いことではなくて、むしろ健全に、ほどよく疲弊することなく生きていく上で必要なことなんじゃないか、ということだ。