金をかけなくても十分幸せだ論について


おれは上野千鶴子が言うような「賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう? 」的な論*1はマジで害悪でしかないと思っていて、それは上に挙げたツイートの通り、本当に「そうせざるを得ない層」にとって呪いや抑圧の言葉にしかならないと思っているからだ。この論を突き詰めると「貧乏人は貧乏人らしく何も望まず、最低限の暮らしをしていけ。それで十分幸せだろう?」という話になると思う。っていうか、「十分幸せになれますよね」って何様なんだよ。本人にとってはそうなのかもしれないけれど、他人の幸福を勝手に手前で定義してんじゃねえよ。金が無いからできない事はたくさんある。そして貧困層の人が金が無いことを理由に断念せざることを得ないことだってたくさんあるだろう。そういう実態があるであろうことは容易に想像がつくことにも関わらず「いやー、金なくても十分やれることいっぱいあるしそれで幸せっしょ」ってお前ふざけんじゃねー、っておれは思う。生活保護で文化的な活動に金をかけることの批判(というか中傷だよ)なんかもこういう考えが根底にあると思っていて、マジでクソ以外の何物でも無い。

kill your 2018

振り返りたくない 考えたくもない
涙はいらない 即死でたのむぜ


kill your music

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今年は全然新しい音楽聴かなかった。これは今年気づいた、というか今まで気づいていたにも関わらず、無視していたと言った方が正しいのだが、おれの生活おける音楽のプライオリティが相当に低くなっている。あと、大学生の頃は(などと語り出すと如何にもおっさん臭くて嫌になるのだが)得た金全てを音楽に費やすような生活をしていたが、今となってはそんなことはない。というのも、今はSpotifyとかApple Musicに1000円くらいの金額を払っていれば、大抵の音楽を聴くことができる。これはめちゃくちゃ便利なのだが、一方でカネを払わなくなったことによって、扱いが雑になってしまったような気がしている。あと、単純に自分で音楽やらなくなってだいぶ時間が経ってしまったのがデカい。6年くらいやってないか。やべえな。おれ自身に音楽を取り戻すにはおれ自身が音楽にならなければならないのかもしれない。まあ、そう言いつつも別に音楽を取り戻す必要性なんて無いといえば無い。たまにグッと来て、たまに泣かせてくれて、たまに驚かせてくれたら、それで十分だろう、と思う。


kill your football

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今年も俺が住んでいた街のサッカーチームはタイトルを獲ることができなかったし、ACLへの出場権を獲得することも叶わなかった。大金をはたいて世界的なプレーヤーを獲得しても、結局のところ中位に落ち着いて、その姿を見て、他のチームの連中は笑ってくるが、おれはおれが応援しているチームがどんな手を使ってでも頂点に立とうとする限りは支持するし、来年、いや、向こう10年笑うのはおれたちだと信じているし、今はそのための過程でしかないとも思っている。しかし、そういう過程においては別れもある。19年もの間、屋台骨として身を粉にして来たプレイヤーもいなくなった。主将を務めていた19番の選手もどこかにいっちまった。転がっていくためには必然だけれど、前者の彼がFC東京戦でディエゴオリヴェイラを完全にシャットアウトしたディフェンスや、後者の彼がマリノス戦で見せた逆転ゴールは素晴らしかった。もちろん、磐田戦のイニエスタのターンや、川崎戦での三田のダイレクトボレーも最高だ。つまるところ、神戸のユニフォームを着た選手が魅せる心を突き動かすようなプレーは全ておれにとってベストでしかない。たとえ、ついて来た結果がベストなものじゃなかったとしてもだ。



kill your internet

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ああしなさいとか こうしなさいとか もううんざりだよ
ああしなきゃとか こうしなきゃとか もううんざりだよ


何が正しいか知らない 何が楽しいか知ってる
何が正しいか知らない 何が楽しいか知ってる


そうして僕らは立ってる 生乾きのパンツを履き
居心地悪そうにしてる


ありもしない普通だとか ありもしないまともだとか
幻のイメージの中


まったくダセーよ


この日記は2018 Advent Calendar 2018の12日目の記事として書かれました。昨日はhysyskさん、明日はtakawoさんです。

映画における嘘とリアリティ

今、MCUを順を追って観よう期間に入っており、一番最初の『アイアンマン』から観ている。こないだは『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』観た。んで、Twitterにも書いたんだけれど、この映画に関してどーしても納得がいかない点が二つ。一つは敵役のドイツ軍のドイツ人がドイツ人同士で英語で会話している点。もう一つが、米軍内において黒人と日系人が編成され、かつ白人と対等に扱われている点。舞台は第二次世界大戦なのだが、この二点に関して、あまりにリアリティがなさすぎるだろ、と感じざるを得なかった。前者に関してはドイツ語で会話させておいて、字幕にすりゃあいいだろう。後者に関してはポリコレ的な配慮があったのだろうが、1940年代のアメリカといえば、公民権運動やマーティンルーサーキングやマルコムXも登場する以前であるし、コーカソイド以外に対する差別も非常に強かったであろうことは容易に想像できる*1。ストーリーや出来に関しては優れたものがある、っていうか普通におもしろい映画なんだけれど、この二点がやっぱり納得がいかない。スーパーヒーロー物の映画にリアリティを求めるなよ、という向きもあるのかもしれないのだが、逆にスーパーヒーローというハッタリをかますのならば、それを取り巻く描写などに関してはリアリティがあったほうがいいんじゃないかなあ、と思う。そうじゃないと嘘の上塗りになるんじゃないかと。特にこの作品の場合、第二次世界大戦という実際の出来事、歴史を下敷きにしているのであれば、そういった点の描写はなるべく現実に即してリアリティがある描写をした方が良いのではないかと思う。

ボヘミアン・ラプソディ』。クイーンにはそれほど思い入れはないのだけど、おもしろい映画だったと思う。ただ、あとあと調べたところによると、実際の出来事をそのまま描いたわけではなく、物語として映えるように脚色を入れたフィクションな部分がいくつかあるそうだ。だが、この映画に関しては脚色があろうがリアリティはあったと思うし、特に納得できない点はなかった*2。しかし、例えばクイーンが楽曲制作に当時登場していない機材...ProToolsを使った、みたいな描写があったとしたら、それってどうなん、って思う。ってかウソにもほどがあんだろ。興ざめさせるには十分な材料となりえる。ヒーローの物語と実際に存在したロックバンドの物語を比較するのは論外なのかもしれないけれど、おれとしては『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』がやってしまっているのは、それと同じレベルのことだと思う。同じマーベルの『マイティ・ソー』なんかの場合、北欧神話をベースとした地球外の登場人物たちの話で、その舞台の時点で大嘘なわけで、浅野忠信が出てこようがなんだろうが、まあそういうもんなんだろう、という納得感はあるのだが。

シン・ゴジラ』。『キャプテン・アメリカ』に関して考えた時、この映画がぱっと思い浮かんだ。大前提として怪獣という大嘘を入れているのだが、現代日本を舞台としたそれ以外がホントっぽい。もちろん、政府の動きが実際にあのような感じなのかはわからないし、リアルかと言われたらそうではないのかもしれない。それでもリアリティは十二分に感じられるし、それがあの映画の面白さにも通じているのではないかと思う。

*1:第二次世界大戦中における米軍でも日系人部隊、黒人部隊というのはあったらしいが

*2:めちゃくちゃクイーンオタクな方からしたらどうなのかはわからないけど